山での記録に最低限の欠かせない基本情報がある。
日程、メンバー、ルートだ。できればタイムも。
その山行が「いつ、どこで、誰が、どのような条件下で」行われたのか。これらが示されてはじめて、山行は一つの現実的な出来事として輪郭を持ち、山の歴史や文化の一部として蓄積される。これらを欠いた文章は、どれほど素晴らしくても、記録ではなく、単なる随筆やポエムに過ぎない。
「記録を書くこと」と「記録を公表すること」は別だ。しかし、自分自身の行為を確定させるためにも、公表する・しないに関わらず記録は書いたほうがよい。下山後に事実を正確に記すことは山行の一つのプロセスである。
山行は史実と同じで、書かねばなにも残らず、現実にあったかどうかも定かではなくなるが、書けば残る。
下山した後は記録に残すことを強いてきた。山行は、書くことで完結する一連の行為なのだ。
——高桑信一「登ること、表現すること」『渓の旅、いまむかし』山と渓谷社、2023年
月報という樽の中で熟成されたビンテージ。積み重ねられた号と号のあいだに、私のかけがえのない山仲間が、いい顔して笑っている。
——池田知沙子「月報は山仲間を培う」『みんなちさこの思うがままさ』山と渓谷社、2013年
一方で、世に「公表」することについて。『DIGGIN’ MAGAZINE』や『Fall Line』といったポエム付き写真集のような雑誌、あるいはSNSで数枚の写真を上げて終わりの投稿を見ると、この「記録の不在」に強い違和感を覚える。洗練された美しい写真と文章があるが、中身が無いのだ。滑りのスタイルや内面的な価値観は伝わってくるが、一番大事な「いつ、だれが、どこの山を滑ったのか」という具体的な事実が、意図的に、あるいは無自覚に隠されている。
もちろん、純粋に登山を楽しみ、自分の山行を外に伝えないという選択もある。誰にも見向きをされずとも、伊藤仰二や鈴木謙造のように、粛々と自分の山をやり、とくに発表しない生き方もある。
しかし、誌面やSNSで発表している者たちはそうではない。公表しているのに、肝心の具体的な部分を書かない。都合の良いかっこよさだけを抽出し、記録としての責任を放棄する。その中途半端な姿勢が、私にはどうしても受け入れられない。
山の文化とは具体的な記録の積み重ねだ。私たちは先人の記録を参照し、比較することで、自分の立ち位置を理解してきた。
ほとんどの登山者は、これまで登山を作り上げてきた先人から登山を学び、それを踏まえて自分なりにどのような登山をしたのかを、仲間や登山界というコミュニティに伝えることで、広い意味で登山文化に参加しています。登山のコミュニティでは知識や価値観が共有されているので、どのような登山をしたかで、その登山者は評価され、認識されていきます。
——服部文祥「日本語を書くということ」『本当の登山の話をしよう』deco、2026年
表現の自由を否定するつもりはない。しかし、山を舞台に表現を行うのであれば、事実情報を伏せる態度は「逃げ」ではないか。具体的な日程やルート、タイムを明記することは、自分の行為を検証可能なものとして公開する誠実さでもある。逆に言えば、そのような事実すら書けない、あるいは隠さなければならないような山行や滑りというのは、所詮その程度のものなのだ。
基本情報を欠いたまま、かっこいい雰囲気だけを抽出・提示するのは、山を消費しているに過ぎない。山を舞台にした表現活動を世に出すのであれば、まずは事実から逃げずに文化に参加すべきだ。